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シナリオライターになる夢

スポーツ選手にしろ、アーティストにしろ、研究者にしろ、教師にしろ、職人にしろ、実業家にしろ、子どもの頃に夢描いた職業につき、活躍している人は、尊敬すると同時に羨ましく思います。

私もかつて映画製作の仕事に将来つきたくて、浪人生活をやめ、京都の撮影所でバイトを始めました。時は1990年代前半、バブル絶頂期ですが、映画はすでに斜陽産業だと呼ばれていました。それでも京都の東映や松竹では年中、時代劇や現代劇の映画・ドラマ撮影が複数同時に行われていて、私も週6日ペースでエキストラの仕事にありつけました。

そこで知り合った俳優を目指す、私と同い年の大学生と親しくなり、大きな夢を語り合ったものです。彼はその後、東京の有名な劇団の研究生になり、彼の卒業公演も観に駆けつけました。それ以来、彼とは会ってもいませんし連絡も取っていません。いつかテレビや映画に彼が出て来ることを楽しみにしていました。

先日ふと彼のことを思い出し、検索すると彼のSNSが出て来ました。彼は現在サラリーマンとして働いているようです。俳優を目指していた、劇団員だったという情報がどこにも見当たらず、何とも言えない悲しい気持ちになりました。かく言う私も映画製作の仕事にはつけませんでした。

映画はシナリオの出来がすべてだと考えた私は、シナリオ作家協会の講座を受けたり大手映画会社で研究生として学んだり、一応基本的な教育は受けたのですが、正直シナリオ執筆と対峙する真剣さや情熱が無かったのだと、今となってはそう言わざるを得ません。

自ら手放したシナリオライターの道

じつは何度か映画業界に入れるチャンスはありました。撮影所でエキストラをしているとき、お世話になっていたエキストラ専門のプロダクションの社長が、裏方志望の僕のために助監督になる話を持って来てくれました。当時僕は21歳、もっと色々な世界が見たいと即答で断りました。
大手映画会社のシナリオ研究所で学んでいたとき、その気さえあれば、活躍する作家先生に弟子入りすることもできました。実際に大御所作家を師事していた同期の者もいましたが、私は人に束縛されず自由に人生を謳歌したいという気持ちが強く、誰かに師事する気にはなれませんでした。それに傍若無人な態度だった当時の私を受け入れてくれる作家先生など、どこにもいなかったと思います。
シナリオ作成のことを一通り学んだ20代後半のときに教育映画を製作する会社(都内)に、シナリオを書かせてくれるという前提で、プロデューサー(資金集めの営業マン)として採用されました。経験を積むには最適な職場でしたが、拘束時間が長く、体調も崩し1ヶ月ほどで退社して、奈良の実家に戻りました。
それから20年近くが経ちました。

ときどき、「もっと真剣に夢と向き合うんだった」と自責の念に駆られることがあります。同時に、自由気ままに生きて来られたことにとても感謝をしています。

あと1ヶ月あまりで48歳を迎える中年独身男ですが、やりたいことは尽きません。改めて考えてみると、20歳の頃に描いた同様の夢を実現しようと思えば、今からでも、今の仕事をしながらでも充分に実現できるように思えます。
ただ、映画製作に携わりたい、映画シナリオを書きたという熱い思いは正直ありません。
そろそろ、また自分探しの旅に出たいと思う今日この頃です。

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