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わが生い立ちの記(その1)

今春からブログを始めたのですが、少々堅苦しい内容が続きましたので、今回は雰囲気を変えて、僕の生い立ちを記します。誰も興味ないと思いますが(苦笑)。

1970年(昭和45年)の10月30日に僕は奈良県吉野郡大淀町にある下渕商店街の婦人服の仕立て屋の長男として生を受けました。
手相は「マスカケ」、福耳、ぎり(つむじ)が二つという赤ちゃんで、両親と祖父母は将来大出世すると大変期待してくれていたそうです。先祖は高取藩藩主の植村家に仕えた侍の家柄で、それが北村家としての誇りあったようで親戚が集まると自然とその話題になり、その自覚を自分にも求められていることが子どもながらに感じていました。表向きや世間体を大事にするそんな中にあって、両親は僕を自由奔放に育ててくれました。

運動神経は普通、勉強も普通でしたが、小さい頃から考え方や視点がユニークで、親しい友人の間では天才、「吉本(興業)でも通用する」と言われるくらい内輪ウケするトークのポイントを心得た少年でした。

140526_new中学校の部活でバスケットボールにハマり、県大会では常に上位まで勝ち上がるチームのポイントゲッターでした。運動神経がとりわけ良いわけでもないのに、バスケット部がそこそこ強い県外の高校に進学し、そこで悲惨な3年間を送ることになります。高校時代のことは、今思い出してもツラいので省きます(苦笑)。
しかしその悲惨な高校時代に、読書と映画鑑賞の楽しさを知るのです。そして、将来は映画のストーリーを考える仕事がしたいと漠然と思うようなります。

小学校の頃から、親しい友人たちの間では「モリヤス(僕の下の名前)の話は面白い」「カネを払ってでも聞く価値がある」と言わしめるほど、友人のウケるポイントを熟知し、それに合わせて話を脚色したり、話す順番を変えたりして周囲を笑わせていました。子どもながらに、笑わせることだけは誰にも負けない自信がありました。というのも、他の面白いといわれる同級生たちは、勢いだけや、誰かの真似をしていてオリジナリティがなく、内容が練られていないということを感じていたからです。目の前の人をトークで楽しませるのがとにかく好きな子どもでした。

高3になって部活を引退してからは、地元の映画好きの同級生の家に入りびたり一日数本の映画をビデオで観ていました。
大学生になったら「映画同好会」に入ろうと思っていましたが、高校3年間部活に明け暮れ、まったく勉強をしていなかったのと生来の怠け癖な性格が出て、2浪目の途中で進学をあきらめ、フリーターになってシナリオライターを目指すことに決めます。世は1990年、フリーターは新たなライフスタイルとして、世間では好意的に捉えられていました。

1991年の1月、地元の成人式に出席し、翌日から京都で一人暮らしを始めました。東映京都撮影所で時代劇や2時間ドラマのエキストラと、スイミングスクールのアルバイトを掛け持ちしながら、通信教育で映画シナリオを勉強、そんな日々を1年半ほど送りました。
撮影所では、大部屋の俳優さんたちと親しくさせていただき、また超大物俳優やアイドルを間近で見れたり、二言三言ですがときに会話できたりするなど、大変貴重な経験をさせてもらいました。

実は、東映で撮影していた時代劇やヤクザ映画や、それに邦画全般にはまったく興味がなく、助監督になる話もあったのですが、あっさり断りました。もしそこで助監督になっいたら、今ごろカンヌ映画祭の常連監督になっていたかも知れません。まぁ怠け癖がある僕のことですから、過酷な助監督の仕事は務まらなかったと思います。

アメリカ映画、アメリカ文化に憧れをもっていた僕はアルバイトでお金を貯めては、一人でアメリカ旅行に行くようになりました。アルバイト・シナリオの勉強・アメリカ滞在という、友人たちがうらやみ、親・親戚がとがめる自由奔放な20代を過ごしました。
今回はココまで。

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