わが生い立ちの記(その4)
シナリオライターになることを諦め、奈良の実家に帰って来たのが1999年の暮れ。しばらくはアルバイトで食いつなぎ、2000年の暮れに就職します。グルメサイトの運営会社で、大阪市内の飲食店の広告営業をするのが僕の仕事です。
飲食店には3ヵ月間無料掲載してもらい、それで良ければ本契約してもらう。飲食店にとってはノーリスクなので、比較的簡単な営業だと考えていました。しかし当時、「インターネット=胡散臭いモノ」と捉えられていて、僕を含め営業パーソンは6人いて、その中には他業界からの元敏腕営業パーソンもいましたが、中々契約を取ることができず苦戦をしていました。しかし、なぜか営業経験のない僕だけが簡単に契約が取れていたのです。僕一人だけ毎日コンスタントに契約を取って来るので、よほど口が上手いか、契約書を偽装しているではないかと幹部の人間に疑われたくらいです。
とっておきの営業テクニックを持っている訳でも、もちろん契約書を偽装している訳でもありません。僕にしてみれば、いたって普通のコニュニケーションをしているだけのこと。しかし他の営業さんたちは、契約を取ろうとするあまり肩に力が入ったり、緊張のあまり挙動不審になったり、饒舌すぎたりして、店主とまともなコニュニケーションができなかったようです。そのグルメサイトに掲載された飲食店のほとんどは僕が飛び込み営業したところでした。他のメンバーがあまりにも契約を取れないので、僕は次第に契約を取ることに罪悪感を覚えるようになり、それが原因ではありませんが、半年ほどでその職場を去ります。
シナリオライターをめざしていただけに、やはり文章を書く仕事がしたく、広告制作会社なら書く仕事があるだろうと面接を受けに行くのですが、業界経験のない僕を採用するところはありませんでした。そんなとき、アルバイト冊子で「雑誌の取材記者募集/初心者歓迎」の小さな広告を見つけ、面接に訪れるのです。結論からいうと、そこは詐欺まがいのインチキ編集プロダクション(編プロ)でした。
記者志望の人を募集して、面接に来た記者経験のない人に対して、研修費の名目で逆に3万円を徴収し、研修と称してリサーチなどの雑務を無償でさせるのです。常に求人広告を複数の媒体に出し、常時15人前後のスタッフがいる状態で、入れ替わりはかなり激しいでした。しかしその編プロにとっては入れ替わりが激しいほど都合がいい訳です。代表の男性を頂点にかなり奇妙でやばいヒエラルキーができ上がっていて、まともな人間は数度通って去って行きました。僕はその詐欺まがいのやり方が許せず、そこでの出来事を文章にしたためて、大阪市内の雑誌編集部に持って行きました。
本来は、ゴシップ誌の編集部か新聞記者に情報提供すべき内容のネタですが、当時の僕はその辺のことがまったく分からず、ゴシップ誌といえば『フライデー』(講談社)、同じ出版社に行けばいいだろうと『関西一週間』の編集部にそのネタを持ち込んだのです。今から考えると本当に場違いな話です。
結局、僕が持ち込んだネタはゴシップ誌の記事になるほどのネタではなく、そのことが世に出ることはありませんでした。しかし詐欺プロダクションの様子を描いた記事を読んだ、編集者にとてもよく書けているとライターになることを薦められ、真っ当できっちりした編プロを紹介してもらいました。奇しくも、インチキ編プロに籍を置いたおかげで、プロのライターとして一歩を踏み出すことになるのです。
人生万事塞翁が馬。いったい何が幸いするか分かりません。
ライターになって以降のことは、また違う機会にお話しします。
次回からは、僕の人生ではなく、以前のようにライターやライティングのことについてお話しします。